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2025年3月16日 (日)

ワタナベエンターテインメント企画制作「マスタークラス」世田谷パブリックシアター

<2025年3月15日(土)夜>

世界的なオペラ歌手のマリア・カラス。彼女が劇場で生徒を相手に公開指導を行なうマスタークラスが開催される。やってきた生徒を相手に指導を行なううちに、昔の思い出がよみがえる。

黒柳徹子がセゾン劇場の再演で演じたのを観て以来だから何年ぶりでしょうか。細かいところは忘れて臨みましたが、実はよくできた話だったのだなと観終わって感心していました。

前に観たときはマリア・カラスのとがったプライドと、生徒や他の有名な歌手に対して意地が悪い様子のところに笑っていた覚えがあります。今回それはそれとして、マリア・カラスが音楽に対しては真摯に臨んでいた面をそれ以上に強調する演出でした。で、そこを取出したら、考え方としてはやや古いものの、古いなりに筋の通った、そして極めるからにはひとつのことに打込むことが当たり前、当たり前にならざるを得なかった余裕のない時代で最高峰まで上り詰めた歌手の芝居に仕上がっていました。

それを演じた望海風斗も、出だしはやや硬かったものの後半は調子が上がっていました。宝塚トップも務めた喉の披露はほどほどに、だけど経験と貫録は引っさげて、いいマリア・カラスでした。他もなかなかいいのですが、演奏とスタッフ役の2人はともかく、歌手の3人が単体で観るといいのですがどうも馴染んでいない。歌唱力優先で選んだためか地の場面の調子まで大げさに過ぎる。これは公演後半になるほど馴染んでしっくりくるケースと見受けましたが、こちらはもう一度観るわけにはいかないので、演出でもう少し調子は均しておいてほしかったです。

あまり比べるものではありませんが、とはいえやはり黒柳徹子の芝居を思い出すと、前半最後の回想場面で「私は勝った!」と叫んだときのあの一声、あれで私は黒柳徹子を女優と認識したので、あそこにひとつピークがほしかったとは思いました。それは他の歌手に対して意地が悪い様子との裏返しなので演出に合わなかったかもしれませんが。まだ芝居に対してどんなものかと探っていたころに受けた強烈な印象というのはなかなか抜けないものだと、帰り道に自分も回想していました。

梅田芸術劇場/研音企画制作主催「昭和元禄落語心中」東急シアターオーブ

<2025年3月15日(土)昼>

昭和の時代、名人と呼ばれるも弟子を取らないことで有名な噺家が、刑務所帰りで弟子入りを頼み込んだ男を弟子に取る。住込みなので自宅に居候となるが、家族はおらず、付人以外にはかつての兄弟弟子の娘が暮らしている。兄弟弟子が妻と一緒に亡くなったので引取って養っているのだが、その娘は噺家が両親を殺したと言い張る。ただ事ではないので新弟子が訊ねたところ、付人は娘の両親と噺家を巡る因縁を話し出す。

漫画原作も一切情報を入れないで観に行ったら、落語の話ではなく落語家の話でした。なので落語に寄せた展開は多少出てくるものの、本筋は身寄りのない子供が噺家に弟子入りして辿った因果です。

落語の場面は初めと終わりだけやるので座りっぱなしの場面が続くわけではありませんが、それだけに落語家らしく見せるのは難しい。そこを山崎育三郎は破天荒な落語家という設定を生かして、きっぷのよさと華を前に押し出して歌に演技に魅せてくれました。そちらが動なだけもう一方の落語家は静にならざるを得ず、古川雄大は歌はいいものの場面作りで動きを大げさにつけるわけにもいかず苦労していました。事情はみよ吉を演じた明日海りおも同じで、芸者時代は着物もあって動きが狭く、洋装になってからの方が場面は短くとも自由でした。それよりも落語家の物語という体を保っていたのは二人の師匠を演じた中村梅雀によるところが大きく、この人あってこその今回の物語と思わされました。

原作が選ばれることだけのことはあってよくできていましたし、役者も歌と演技を熱演していました。ただ、落語をミュージカルにするならともかく、落語家の話をミュージカルにするのはなかなか難しかった。ミュージカルにするには食い合わせが悪いというか、ストレートプレイの方が向いている原作だったように思われます。それをミュージカルにするなら歌の歌詞も挟みどころもまだまだ工夫のしどころがあったかなと思います。歌詞については後ろのスクリーンに映していましたが、私の観た席からだと半分以上見切れましたので、その辺もストレスでした。

その歌詞が見切れた理由の1つは高さのあるセットを組んだからですが、あの高さも物語にはここ一番以外にはいらなかった。大きい劇場を満員にした集客力はさすがでしたが、PARCO劇場とは言わないまでも、せめてシアタークリエくらいに抑えていたらまた評価も変わったかな、というのがミュージカルひよっこな観客としての感想です。

2025年3月 9日 (日)

松竹制作「仮名手本忠臣蔵 夜の部(Bプロ)」歌舞伎座

<2025年3月8日(土)夜>

おかるの実家に身を寄せた早野勘平は猟師で身を立てているが、ある雨の夕暮れに山道でかつての塩冶家の同輩と出会う。仇討とそのための金策の打明けられたので住まいを教えるが、さりとてそのような金はない。二人が別れた後でおかるの父の与市兵衛が通りかかる。勘平のためにと勘平に内緒でおかるが祇園に身売りしたので、その半金五十両を持って家路を急いでいた。それをかつての家老の息子で身を持崩して山賊を行なっている斧定九郎が斬捨てて大金を懐にする。ところがそこに通った猪を狙って勘平が撃った鉄砲が斧定九郎を倒す。すでに夜のこと、勘平は誤って人を撃ったことには気付いたが相手のことはわからず、薬がないかと探った懐の財布に気付き、申し訳ないと思いつつも仇討に加わりたいため持帰ってしまう(五段目)。あくる日、まだ与市兵衛が戻らないと心配するうちに、祇園の女将たちがおかるを身請けにやって来る。そこに勘平が戻ってきて事情を聞かされ、おかるは連れて行かれる。その後で猟師仲間が見つかった与市兵衛の亡骸を運び込んだので、怪しい財布を持っていた勘平をおかるの母のおかやが問詰める。そこにかつての塩冶家の同輩2人がやって来る。勘平は家に戻る前に五十両の中身を預けていたが、駆落ちした勘平からの金は受取れないと返す。話を聞いたおかるは勘平を責め、勘平も2人の前で腹を切って金を手に入れたいきさつを話す。だが鉄砲で撃ったと話す勘平なのに与市兵衛の亡骸は刀傷のため、誤解がわかる。すでに瀕死の勘平におかるは詫び、同輩2人は勘平の腹を切った血で連判状に勘平の名を連ねる(六段目)。しばらく後の祇園。大星由良之助は茶屋に泊まり込んでうつつを決込む様子で、手の者が説教に来てもあしらって返す。そこにおかるの兄の寺岡平右衛門がやって来て仇討に加えてほしいと頼み込むがそれも断る。かつての家老で今は高師直の手先となっている斧九太夫は由良之助の様子を探りに来て、主君の命日に生臭ものを食べさせるが由良之助は平気で口にする。なお様子を調べるために床下に隠れた斧九太夫に気づかず、届けられた密書を読んでしまった由良之助だが、それを手鏡越しに2階から見ていたおかると、床下に潜む斧九太夫に気が付く。密書を見られたおかるを放っておけないため身請けを申し出た由良之助を待つ間に平右衛門がやって来て、兄妹は再開する。由良之助がおかるの口封じを考えていることに気が付いた平右衛門は、おかるに家族の様子を知らせ、仇討に加えてもらうための手柄におかるの首をくれと頼む。それならとおかるが思い切ったところで由良之助が2人を止める。代わりにおかるといっしょに床下の斧九太夫を刺し、平右衛門が仇討に加わることを認める(七段目)。ついに仇討の晩、激しい戦いの末に師直を見つけた一行は本懐を遂げる。師直の首を捧げるために菩提寺に向かう一行に、江戸見回中の旗本の服部逸郎は、旗本屋敷を通ると捕まりかねないので裏道を通って向かうのがよいと遠回しに指図する。案内に従って道を変えるように指図する由良之助に向かって、服部逸郎は別れの挨拶を交わす(十一段目)。

仁左衛門勘九郎のBプロ。昼の部はこちら。今後のためにとあれこれ調べて粗筋をまとめてみましたが、後半は重たい場面が多いのでまとめも大変です。省略されているのは八段目が加古川本蔵の娘が由良之助の息子への嫁入りに向かう場面。九段目がその親子と由良之助親子とが、いざこざの末に和解する場面。十段目は討入り前にかつての塩冶家の出入商人で仇討の協力者の廻船問屋の真意をもう一度確かめる場面です。二段目の省略と合せて、大星由良之助の息子と加古川本蔵の娘の婚約が、塩冶判官と桃井若狭之助との間に関わるところが丸ごとかとされています。ここまで入れたらプラス2時間でも収まらないだろうからやるなら思い切りカット、その代わりにおかる勘平平右衛門の側はきっちり、という上演でしょう。

仁左衛門の由良之助以外に、勘平の勘九郎は昼の部に続いて夜も腹を切りましたがやっぱり上手、おかるの七之助は笑わせようという場面をきっちり入れてきて、あと平右衛門の松也はきりっとして真っ直ぐな感じが出ていましたね。他だと斧九太夫の片岡亀蔵は憎い役のはずなのにわからなくもない線まで持ってきているのが目を惹きました。五段目の斧定九郎は中村仲蔵方式で来るかなとちょっぴり期待しましたが、きれいで男前な斧定九郎でした。役者の出来に文句はありませんが、最後の最後、仁左衛門が「吉良邸に討入り」と台詞を言ったように聞こえましたが、あれはそういうものなのか、間違えたのか、どちらでしょう。

芝居全体では、もう少し場面転換がスムーズだとよかったのになと取れる場面がいくつかあったのが惜しいです。あとはたっぷりやりすぎて長くなったのもやはりもったいない。これだけカットしても1日がかり、昔はこれを1日で上演したのでしょうか。だとしたらもっと早い時間から開幕したとしても、芝居をもっとテンポよく運ばないと1日では収まらなさそうです。これはコクーン歌舞伎でカットなしで1日通し上演をやってくれないかなと期待したいです。

ちなみに芝居が終わって外に出たらこの季節なのに雪で、うおお討入りだあああとテンションが上がりながら駅まで歩きました。服装はまあ暖かくできたでしょうし、動いているうちには身体も温まるでしょうが、討入りの時に手足の暖はどういう格好をしていたんでしょうね。寒さには今より慣れて強かったでしょうが、手がかじかんで刀が握れないようでは困ります。それなりに防ぐ知恵はあったと思いますが、そういう普段の格好すらわからなくなった昔の話なのだな、江戸は遠くなりにけり、との感を覚えました。

松竹制作「仮名手本忠臣蔵 昼の部(Aプロ)」歌舞伎座

<2025年3月7日(金)昼>

天下を平定した将軍足利直義は、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮に新田義貞の兜を奉納する。その検分のため足利家の重臣である高師直は、塩冶判官の妻の顔世御前を呼ぶ。検分は無事に終わったものの、顔世御前に横恋慕している師直は恋文を渡して口説こうとする。それと察した桃井若狭之助が顔世御前を逃がすものの、邪魔された師直は若狭之助を侮辱する。腹を立てた若狭之助が切りかかりそうなところを塩冶判官が止める(大序)。若狭之助の家来の加古川本蔵が主人に将軍饗応の名誉を賜った礼、その実は揉めた主人との仲を再び取持つためにと主人に内緒で進物を持ってくる。これに目がくらんだ師直は受入れて加古川本蔵も見学していくようにと館に入れる。若狭之助は館で師直と会って腹を立てたものの、進物を受取った師直は先手を打って頭を下げたので若狭之助も機嫌を治める。だが若造に頭を下げた師直は塩冶判官に遅いのなんのと八当たりする。そこに顔世御前から師直に、先日口説かれたことについてお断りとの文が届く。この顛末の鬱憤を目の前の塩冶判官にぶつけた師直だが、あまりの悪口雑言に塩冶判官は腹を据えかねて刃傷に及ぶが、加古川本蔵に止められて不首尾に終わる(三段目)。謹慎していた塩冶判官の元に上使がやって来て切腹、領地没収、館明渡を命じる。覚悟していた塩冶判官は取乱さないが、せめて家老の大星由良之助が国許から戻るのを待ちたい。だが戻らないのでもはやこれまでと腹を切ったところで由良之助が戻る。無念を伝えて喉まで切って果てた主君を菩提寺に見送ることで切腹を見届ける上使の石堂右馬之丞は戻るが、館明渡の見届ける薬師寺次郎左衛門は師直と仲がよいため早く館を明渡せと迫る。これを一度奥に休ませて家臣一同で今後の相談をするが、由良之助ともう一人の家老の斧九太夫とは知行に合せて塩冶家の財産を家臣に分けるのがよいと話して分かれる。それでいいのかと詰寄る家臣に由良之助は仇討のためにいまは時期を待とうと諭して館を明渡す。館の中で嗤う薬師寺次郎左衛門一行の声が聞こえる中を館から去る由良之助だったが、館から離れて門が間もなく見えなくなる場所まで来たところで泣崩れる(四段目)。顔世御前の腰元おかると、塩冶家家臣の一人であった早野勘平。二人で逢瀬を交わしていたため閉門された館に戻れず、主君の一大事に駆けつけられなかった二人。それを恥じて京都のおかるの実家を目指して西に駆落ちする。そこにおかるに懸想していた師直の家来である鷺坂伴内が奴を連れて二人に追いついて、おかるを寄越せと言い張る。勘平は相手を散々にやっつけたところで、おかるがそのくらいでと止めて、その隙に鷺坂伴内が逃げる(道行旅路の花聟)。

仁左衛門勘九郎のAプロ。夜の部はこちら。今後のためにとあれこれ調べて粗筋をまとめてみましたが、これだけやってもまだ省略されていて、二段目丸ごとは桃井若狭之助と加古川本蔵の主従のやり取り、三段目の一部はおかる勘平の逢瀬と鷺坂伴内からおかるへの懸想の前振り、四段目の一部は塩冶判官の身を案じる顔世御前と肚の小さい斧九太夫を描いているそうです。だから今回の上演では、塩冶判官と大星由良之助にフォーカスして、それと後で重要になってくるおかる勘平を紹介するといった趣です。それは夜の部を通じても変わらない。

省略版でもよくできている話ですが、見どころはやはり四段目。ここは塩冶判官も大星由良之助もあまり台詞がなく、少ない台詞にどれだけ心を籠められるかと、台詞のない場面をどれだけ見せられるかの勝負。切腹姿の美しい勘九郎と、切腹の後で固く握りしめた手を開く仁左衛門、それと館を立去る仁左衛門、いいものを観られました。

この四段目、上演が始まったら客を入れない「通さん場」と言われているそうです。場内アナウンスがあったので気が付きましたが、案内板も立っていたし、公式サイトにも載っています。このご時世でもまだ本当に通さん場をやるところが、伝統芸能ですね。切腹の場に途中から入れないというのは理屈のようで理屈じゃない。そういう理屈じゃないところがないと続かない。それも含めての忠臣蔵なんでしょう。

館を立去るところで回転舞台を使って、大星由良之助が花道のセリのあたりで止まったまま、門を遠ざけることで離れていく様子を描くのが歌舞伎にしては珍しく、自分の観た席からだと非常に効果的に観えました。そういう美術の使い方ができるなら普段からもっとあれこれやってほしいです。

2025年3月 1日 (土)

2025年3月4月のメモ

上手く探せていないのもありますが、4月に偏っています。

・松竹制作「仮名手本忠臣蔵」2025/03/04-03/27@歌舞伎座:昼夜使って忠臣蔵の通し上演だけどAチームBチームの座組が昼夜で反対になっているので要注意

・劇団青年座「Lovely wife」2025/03/06-03/16@本多劇場:根本宗子が脚本演出

・ワタナベエンターテインメント企画制作「マスタークラス」2025/03/14-03/23@世田谷パブリックシアター:黒柳徹子の名演が今なお忘れられませんが今回は望海風斗主演の森新太郎演出で

・チーム徒花「月曜日の教師たち」2025/04/03-04/15@ザ・スズナリ:大本は千葉雅子×土田英生舞台製作事業でその中から別枠組みの名義なのはどうでもよくて、脚本演出役者を兼ねる人がぎょうさんあつまった芝居

・松竹制作「四月大歌舞伎」2025/04/03-04/25@歌舞伎座:午前の部が染五郎幸四郎で最近出た小説「木挽町のあだ討ち」の新作歌舞伎に黙阿弥を付けて、午後の部で仁左衛門が奇数日に出る「彦山権現誓助剱」

・パルコ企画製作「エドモン」 2025/04/07-04/30@PARCO劇場:マキノノゾミが上演脚本演出のフランス喜劇再演はシラノ・ド・ベルジュラックが出来上がるまで

・サルメカンパニー&クリオネプロデュース「12人のヒトラーの側近」2025/04/12-04/15@吉祥寺シアター:前作が妙に評判になっていたのでピックアップ

・新国立劇場主催「夜の道づれ」2025/04/15-04/20@新国立劇場小劇場:三好十郎の脚本をこつこつプロジェクトでの試演なので地味そうだけどピックアップ

・ラッパ屋公演「はなしづか」2025/04/16-04/23@紀伊國屋ホール:題材がラッパ屋に似合っていそうで、しかも落語家を呼んでくるので期待

・劇団アンパサンド「遠巻きに見ている」2025/04/18-04/27@三鷹市芸術文化センター星のホール:不穏な喜劇を想像させますがピックアップ

遠征しようかなと考えていたのですが、もろもろあって断念しました。もう少し軽やかに遠征できるようになりたいものです。

読んだだけで観に行った気になれるブロードウェイ観劇事情

“観劇特化”のNYブロードウェイ旅 習得ノウハウまとめ(2025年2月)」というブログのエントリーが公開されています。4万字は伊達ではありません。ブロードウェイで芝居を観るための情報があれこれ書かれています。読み終わったらお腹いっぱいでもう観てきた気分になれます。観に行きたいけどよくわからない人は必見です。

いくつかある中で、特に目を惹いたのがこちらです。

(1ドル159円換算)
チケット  157608  9本。個別内訳は別表参照。

円安時代だからというのはわかりますが、割引を駆使してあれこれやった上でこの値段です。さすがブロードウェイ、いいお値段しております。

主宰に愛想を尽かして演出家が逃げて公演が中止になるという珍しいケース

2024年の公演中止のいろいろ」などというエントリーを書いた者ですが、また新しい公演中止のケースが1つ増えました。演劇集団アトリエッジという団体の公演中止です。いしだ壱成が出演予定だったということもあったか、記事になっていました。

公式サイトには以下の通りの文章が掲載されています。

【お詫びとお知らせ】
三月に公演を予定しておりました
「PEACE in the Bottle」ですが、
この度、劇団代表である私の劇団員への不適切な指導により、演出の古新舜様が降板されると言う結論を招いてしまい、
関係者の皆様には多大なご迷惑をおかけしてしまいました。
劇団側で協議を重ねた結果、責任をとって、今作品の公演中止を決定いたしました。
諸々の事務処理は弁護士と相談の上、真摯に対応させて頂きます。
尚、既にチケット等、代金を入金されているお客様への返金は速やかに対応させていただきます。
大変申し訳ありませんでした。

演劇集団アトリエッジ主宰・奈美木映里
制作一同

劇団代表が自分が原因だと明言するのは何かかばうようなことがあったのか、それとも認めざるを得ないくらい明らかに原因だったのか、どちらかと考えていたら、当の演出家本人がXで長文説明していました。申し訳ありませんが全文引用します。

【ご報告:古新舜の舞台『PEACE in the Bottle』演出・監督降板と舞台中止のお知らせ】
こんにちは。古新です。
日頃より温かい応援を賜り、心より感謝いたします。
この度、私、古新舜は舞台『PEACE in the Bottle』の演出・監督を降板することを決断いたしました。
この舞台を愉しみにしてくださっていた皆様には、
このような形でのご報告となることを、心よりお詫び申し上げます。
公演に向けて連日、準備を進めてまいりましたが、
関係者のケアや事実確認、弁護士との協議を重ねた結果、
演出家としての責任を果たすことが難しいと判断しました。
その理由について、簡潔にお伝えいたします。
1. 劇団代表が、劇団員に手を上げる行為を容認できないため:
稽古の一環として、劇団代表が遅刻して来た劇団員に対しての指導行為として、
他の演者の前で手を上げる行為がありました。
たとえ厳しさの一環であったとしても、演劇において暴力が許容されるべきではないと私は考えています。
演劇とは「人と人とが表現を通じて心を伝え合うもの」であり、
その手段として身体的な力が用いられることに強い違和感を覚えました。
私は、すべての出演者が安心して創作に打ち込める環境でなければ、良い作品は生まれないと信じています。
そのため、この環境で演出を続けることはできないと判断しました。
2. 運営体制に問題を感じたため:
商業公演として皆様に作品をお届けする以上、運営の在り方には慎重であるべきと考えています。
しかし、準備や進行の面で改善の必要性を強く感じる点があり、演出に専念できる状況ではありませんでした。
公演を愉しみにしてくださっているお客様に誠実な作品を提供するためには、より良い体制が必要であると判断しました。
3. 主宰者の創作への接し方で疑問を感じたため:
作品を創り上げていく中で、舞台の主宰者との価値観の違いを感じる場面がありました。
舞台は多くの人が関わる共同作業です。信頼関係を築き、互いに尊重し合うことが作品の完成度を高めると考えています。
しかしながら、今回の制作過程において、そのような環境を作ることが難しいと感じました。
演出家として、共に作品を創る方々と良好な関係を築くことができなければ、作品をより良いものにすることはできません。
そのため、この舞台を離れることを決断しました。
このような結果となり、作品を愉しみにしてくださっていた出演者皆様には、
大変申し訳なく思っております。
私自身も、この公演に向けてこの数ヶ月、全身全霊で取り組んできただけに、残念な思いでいっぱいです。
この決断に至るまでのこの三日間、古新は大変苦しみました。
作家として、人間として、さまざまな想いが交錯しました。
ですが、私の次回作が困窮家庭の子どもたちを題材としている上で、
現状、このような状況下で、この舞台を手がけることはけっしてできないという判断に至りました。
最後に、日頃より温かい応援を寄せていただいている全国の皆様に、心より感謝申し上げます。
そして、この舞台にご尽力くださいました出演者、スタッフ、応援者皆様に厚く御礼申し上げます。
このようなことがありましたが、今回の経験を十全に活かして、
来月の「夢AWARD15」のファイナリスト登壇、そして
次回作「ギブ・ミー・マイライフ!」に
全身全霊で臨んでいきたいと考えております。
引き続き、研鑽を重ねてまいりますので、
これからも温かい応援のほど、よろしくお願い申し上げます。
古新 舜拝

午後8:09 ・ 2025年2月28日

公式サイトに載っていた「劇団員への不適切な指導」として、少なくとも「稽古の一環として、劇団代表が遅刻して来た劇団員に対しての指導行為として、他の演者の前で手を上げる行為」があったと断定しています。弁護士とも協議したと書いているくらいですし、演出家から辞退するからには相応の理由がないと演出家自身の将来の仕事に差障ります。だから事実でしょうし、劇団公式サイトも載せざるを得なかったのでしょう。

このツイートの前にもいくつかツイートがあります。「この決断に至るまでのこの三日間」のツイートです。

外の世界を知らないと、自分たちの慣習だけで事業を成り立たせている組織が多々あるが、風の時代は、組織の隠蔽や支配の構図は露呈されていると感じる。起業の前に、経営者免許のようなモラルや理念経営を学ぶことが必須ではないか。ホットハートだけではなくクールマインドが経営者には必要だ。 #コニーのまなざし
午前6:54 ・ 2025年2月26日

 

家庭でも芸能界でも、躾や愛情と称して子どもや俳優に手を出す親や経営者が多々いるが、看過できない。歪んだ支配は、風の時代にはそぐわない。古新も姫も、暴力なしで相手を成長させられると強く説いている。教育とは支配ではない。安心と信頼によって、人格を尊重する環境をしっかり広げたい。 #コニーのまなざし
午前6:38 ・ 2025年2月27日

 

半年間全身全霊をかけて向き合ってきたことが、とある一人の身勝手な営為で全てがパーになった。古新にとって不可抗力ではあるが、関係者が泣いていて心が痛い。日中報告します。物作りは得てして想いばかりが先行するが、運営体制、人間性、倫理観、社会性それらを学ばずして事業は行えない。 #コニーのまなざし
午前6:40 ・ 2025年2月28日

泣いている関係者が誰なのかはわかりませんが、「とある一人の身勝手な営為」と書いてあるので、他にもいろいろあったのを主宰が引っ被ったわけではなく、本当に主宰がひどかったのだと思われます。

となると、手を上げた話が一番目立つ話ですが、それだけにわからない。

まず、演出家が役者を殴るならたまに聞く事件なのですが、今回は演出をしない主宰が手を上げたというのが珍しいところです。

遅刻してきた劇団員を叱るだけでなく殴ったというなら、まだわかります。「時間厳守」「挨拶」「年齢よりも芸歴優先で相手を立てる」のが芸能界の掟で、何しろ色々な人がいる業界ですから、そんな中でも仕事を回していくために最低限かつ必ず守るべきとされたのがその3つの掟だと素人のこちらは理解しています。そこから先は売れている者が正義。

なのですが、稽古の一環として手を上げるというのがさっぱりわからない。殴るのが稽古になるわけがない。それなら虫の居所が悪かったから八つ当たりで殴ったというほうがまだ納得がいきます。検索して見つけましたが、今回の主宰は1957年生まれだそうなので、遅刻したら手を上げられても文句を言えない古き芸能界を生き延びてきた人なのでしょう。去年観た別の芝居のアフタートークで「非常に雰囲気のいい現場」という話が強調されていたので、その裏返しの極端な例が今回なのかなと考えます。

ちなみに有名な話では、芝居の本番に遅刻した阿部サダヲを松尾スズキが殴った話があります。だから稽古でよほど何度も遅刻している前科があるなら主宰に多少同情の余地があるかもしれませんが、それなら降板するのは演出家ではなく役者でしょうから、そういうわけでもないと考えられます。

他の2つの理由も併せて考えると、演出家が仕事を引受けてはみたものの、3番目の「主宰者の創作への接し方で疑問を感じ」ることが何度かあり、それもある程度は致し方なしと進めていた。その過程で演出以外にも公演を手伝わされるような状況になって2番目の「運営体制に問題」を感じることが多々あった。とは言え、逃げるに逃げられないところ、1番目の問題があって、さすがにこれはあかんとケツをまくった、といった経緯ではないかと推測します。

仮に、本当に仮にですが、病気でもないのに手を上げないとわからないような劇団員なら、昔はいざ知らず今なら手を上げるよりクビにするほうが当世流です。暴力は、暴力を受けた本人だけでなく、周りも嫌な雰囲気になって、全体のパフォーマンスが落ちると言われています。

それは反対に言えば、理不尽に一発二発殴る殴られるくらいは当たり前、それよりは一芸で何とか身を立てることを優先したいような人はお呼びではないということです。宮沢章夫が亡くなった2022年に私はこんなエントリーを書きました。

昨今はインターネットが発達したことと世間全般にハラスメントという概念が膾炙したことで、不行跡が伝えられると魅力にダメージが入って謹慎に追込まれるようになりました。が、能力はまた別の話です。場合によっては歪んだ人格が能力や魅力を生みだす面もあります。が、経緯はどうあれ獲得された能力というものはあります。

俗に「作者と作品は別人格」といいますが、これは作品は独立して評価されるべきという話だけではありません。客を呼べるだけの成果を出せる人の人格がまともなわけがないだろうという話も含んでいます。周りにかける迷惑の度合いに濃淡があるだけです。

繰返しますが私は暴力反対です。だからと言ってつまらないものに金を出すつもりもありません。私に限らずたいていの人が同じでしょう。だから昔から世間では、芸能界や出版界は堅気じゃない、まともな人間のつく職業ではないと区別していました。今でもそう考える人は多いでしょう。それは差別と呼ばれるレベルの区別ですが、人格よりも能力や魅力が必要な業界ではそうならざるを得ないからです。

それが最近、堅気と業界との境が曖昧になってきました。またハラスメントのない創作および創作環境の追求を試みる活動も出てきました。宮沢章夫の暴力沙汰からの隠遁は、その過渡期の出来事と言えます。

その活動がどこに落ちつくのか、金を払いたくなるコンテンツが引続き提供されるのかは、芝居なり本なりに金を払ってきた客の一人として興味を持っています。

世間の潮流は、芸能界の行き過ぎた面を正す方向に向かっています。それはそれで一理あって、うっすらと考えていることもあるのですが、本件とは話がずれますのでまずはここまで。

2025年2月24日 (月)

新国立劇場オペラ研修所「フィガロの結婚」新国立劇場中劇場

<2025年2月23日(日)昼>

とある伯爵家で使用人のフィガロとスザンナが結婚式を挙げる当日。スザンナに懸想する伯爵は愛人になるように迫り、フィガロとの結婚を信じて金を貸してきた女中頭のマルチェッリーナにその恋人の医師バルトロはフィガロの結婚を邪魔しようと画策する。フィガロもスザンナも何とか両者の企みを跳ね返そうとするのだが、それを知らない伯爵夫人は伯爵の愛が離れていくのを心配し、スザンナに頼んで伯爵を逢瀬に誘って自分が身代わりになって伯爵を懲らしめる計画を立てる。それだけでもややこしいのに、近ごろ恋に目覚めた伯爵の小姓ケルビーノは伯爵夫人は素敵だとスザンナに訴える。小姓と言えども男性なのに伯爵夫人と二人っきりのところを見られては嫉妬深い伯爵の怒りが予想されるのでスザンナも伯爵夫人も追返そうとする。フィガロの結婚の日なのに、とにかくややこしい1日。

おー聞いたことある、というオープニング曲から始まりはしたものの、とにかくややこしい話。ややこしさの全貌がようやく見えてきた後半は登場人物全員、間が悪い空気読めと引っぱたきたくなるけれど、それは置いておいて、やっぱり耳馴染みのいい曲が多くて、モーツァルトの名作と言われている理由はわかりました。「セビリアの理髪師」の続編だということも初めて知りました。

全編イタリア語の字幕というあたりに一抹の不安を感じましたが、ろくに粗筋も知らないで臨んだ身としては、むしろ粗筋を字幕で追って耳では原語を楽しめたので初フィガロには今回の仕組みの方がよかったと観終わった今は思います。だけど字幕を観ないで原語で聴いているっぽい笑いも少数ながら起きていて、芝居とは客層が違うなと思わされました。

ダブルキャストなので本日初日にして最後だったため、出だしこそ歌手が(オーケストラも)やや緊張していた気配がありましたが、前半の後半あたりから温まって来て、終わるころには絶好調でした。だから頭から通しで出ていた歌手は調子を測るのが難しいですけど、それでも歌がいいなあと感じたのは伯爵夫人の吉田珠代が一番、ケルビーノの大城みなみは歌だけでなく茶目っ気を出した演技も含めて二番、伯爵の中尾奎五は一人演技の場面で声量が落ちたのが惜しいですけど大勢と合せるときはそんなことなくて威厳があるときの伯爵らしさもよく出ていて三番、でしょうか。とはいえ、そこから先は明確に劣る人は誰もいません。しいて言えばオペラ歌手の圧倒的な声量というのも聴いてみたかったですが、声量が中劇場サイズにチューニングされていたのはしょうがないとして、声が前に飛ばず奥に向かう歌手が何人かいたようではありました。素人的には前にパーンと張って出てくる方が好ましいです。

カーテンコール含めて3時間45分の長丁場でしたが、有名演目を観られて聴けて、全体に満足の行く出来で、楽しめました。他の有名オペラもこれで観たいと思わされました。オペラハウスもいいんですが、やはり大きすぎる。

後は芝居と関係ありませんが、当日パンフを読んで知ったのは、オペラストゥディオ(オペラ研修所)の場合は全員音大を出てからさらに入っているのですね。そこは日本語の世界である芝居と、西洋言語で世界をマーケットに見据えないといけないオペラ(クラシック)の世界とでキャリアパスが全く違うのだなと勉強になりました。

2025年2月23日 (日)

松竹制作「猿若祭二月大歌舞伎 夜の部」歌舞伎座

<2025年2月21日(金)夜>

夜の部2本。大奥の女房江島と通じて島流しにあった歌舞伎役者生島は、島でも江島を忘れられず物狂いとなってしまったが、そこに通りかかった海女の1人が江島にそっくりで「江島生島」。博打にはまって素寒貧になり夫婦喧嘩が絶えない左官職人、一人娘が夜にも帰らないと騒いでいたところで吉原の店から使いがやって来て店に行けば、父の借金を返すために身を売りたいと娘が自分から言い出したとのこと、見かねた女将が娘は大事に預かるから1年限りで返して見せろと金を出し、さすがに心を入替えてさて家に帰ろうとしたところで「文七元結」。

チケットがあるかと思ったら普通席は完売で、当日券は「阿古屋」が売切れていたけどまだ買えた他の2本の当日券を掴んで観劇。「江島生島」は踊りと音楽で雰囲気を楽しむのが吉。そういう楽しみ方もあるのだなと発見。

「文七元結」は落語で聴いたばかりなので芝居ではどうかと見物。これは勘九郎と七之助ががっつりだけど、特に勘九郎が完全に劇場を手の内に収めて客席を転がしてみせた。演目だからか公演後半だからか、やや客席が慣れていた様子だったけれど、それを差引いても上々の上の出来。身投げの男を引き留める場面、誰も通りやしねえと言う台詞のところでちょうど客席の赤ん坊が声を上げてしまったのもすかさず「赤ん坊の声しか聞こえやしねえ」とネタにしたところは落着いたもの。最後の長屋での夫婦喧嘩からの大騒動はもう、七之助と二人してやりたい放題やっているのに矩を踰えないところに感心しきり。観られてよかった。名前の順番は一段下がるみたいだけど、兄弟二人がこの世代の一番二番です。

東京サンシャインボーイズ「蒙古が襲来」PARCO劇場

<2025年2月21日(金)昼>

来客の準備に忙しい対馬の村長の家。どうやら鎌倉から武士がやって来たらしい。海の向こうから異国の襲来があるかどうかを確かめたいからだという。だが手伝ってほしい子供は遊びに出かけ、久しぶりに戻ってきた村長の息子は妹夫婦に準備を任せてぐうたらしている。鎌倉からの客人の相手をするために他の村や神社からも人が来ているが、どうにものんびりとした晴天の1日。

東京サンシャインボーイズ再公演ということで、観ました。普段の三谷幸喜の芝居から考えていたのとはだいぶ異なるスロースタートな芝居なのは、劇団員が多くてその分だけ登場人物が増えて、紹介に時間がかかるからでしょう。三谷幸喜のことだから、むしろそれを解決するためにのんびりとした漁村という舞台設定を選んだに違いありません。そこから少しずつ笑いが始まっていきます。オチはどうなるかと考えながら観ていたら、これはないよなと考えていたオチになりました。そうやって期待を裏切っていってこその三谷幸喜、でしょうか。

名前を見れば「おお」と思うような実力派が並んでいるのですが、全員役に徹して、狙って笑いを取りに来るようなことはしません。が、それが過ぎて、観たことのある役者でも「この役があの人かな?」となってしまいました。三谷幸喜の嫌うところではあるでしょうが、もう少しあざとく笑わせに来てもよかったかなと思います。

開演前と後のアナウンスもささやかに笑いを取りに来るので、早めに劇場に着いてアナウンスが聞こえてきたら耳を傾けてみましょう。

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