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2024年12月 8日 (日)

新国立劇場主催制作「ロミオとジュリエット」新国立劇場小劇場(若干ネタバレあり)

<2024年12月7日(土)夜>

ヴェローナの街の有力者にして勢力争いで街を二分するモンタギュー家とキャピュレット家。モンタギュー家のロミオは仲間と一緒にキャピュレット家の開く仮面舞踏会に潜り込むが、そこでキャピュレット家の一人娘ジュリエットと出会う。たちまち恋に落ちた2人は翌日神父のもとに出向いてこっそり結婚するのだが・・・。

初日。新国立劇場演劇研修所が最終年度に3回行なう上演の2つ目。三間四方の素舞台に囲み客席。始まる前から役者に客席をうろつかせて冒頭の台詞を話させるのは客席の雰囲気を高める手段でもあり、役者の緊張を解く手段でしょうか。開演前のアナウンスもうろつく役者にやらせてから、すっと舞台を始める出だし、好きですね。そして観終わったら結構面白かった。

この日はマキューシオとパリスの2役を演じた横田昴己、大公の萬家江美、キャピュレット婦人の高岡志帆、キャピュレットの中西良介が気になりましたけど、全員万遍なく、割と上手でした。とにかく勢いだけは切らさないところはよかったし、若い役者の上演なだけはあって、走り回ったりアクション激し目にこなしたりしても息が切れないのはいいですよね。あえて難点を言えば、ロミオの中村音心とジュリエットの石川愛友は嘆き悲しむ場面でもっと外に出してほしいところ。芝居の設定上は内に向かうところでも、そのまま内に向かって演じられると、激しく嘆くほどうじうじするなと引っぱたきたくなる。その点、怒鳴っても演技上のいらつきは感じさせない中西良介がよかったのですけど、こちらは10期生なので今年の18期生からはだいぶ年上なので、慣れの差でしょうか。

演出が現代音楽で、あれは芝居の使い方というよりは音楽ライブっぽさがあって、演出の岡本健一のセンスが出たところでしょう。音楽製作の田中志門は岡本健一のバンド仲間ですね。あとはアクションも激しさ優先で演出していて、さして距離のない至近距離でもいい感じに見えました。

ただ、これが若干ネタバレの話になりますが、演出でエンディングをがらっと変えてきました。

本来は納骨堂に皆が集まって、ロレンス神父がことの経緯を話して、それで大公が両家を諭して、2人の像を立てて仲直り、で終わります。ところが今回はロレンス神父が逃げて、両家がいがみ合ってアクションをしたまま終わります。マクロには戦争で世界が争っている現代でもあり、ミクロにはSNSで主義主張が飛び交って少しずつ分断が進む個人単位の現代でもあります。他にも両家で主人が妻を足蹴にしていたり、キャピュレットが勝手に性急に娘の結婚を決めたところで妻(ジュリエットの母)が夫を怒らせないことを優先したように見せたところも現代的な演出でした。計画を提案したのに、神父なのに、事情を話さないで逃げたロレンス神父が個人的には現代的すぎて嫌すぎました。いますよね、言いだしっぺで逃げるこういう人。

演出全体に方向性がはっきりしていて、岡本健一はただの名前貸しの演出ではなかったと認識しました。大人側に絶望的な要素を集める一方で、希望の欠片をロミオとジュリエットの2人に集める演出プランだから、2人の役者に掛かる期待と責任はとても大きい。いくら奮起しても足りないくらいですが、一層奮起してほしい。

スタッフワークは安定安心の新国立劇場ですけど、今回は素舞台に、天井だけ吊って電飾を飾って上下させていましたけど、あれでも素舞台に近いと言えば近い。衣装も白いTシャツとパンツに汚しを入れて、芝居にも役者にも似合っているけど簡素。何となく、2回目の公演は勢いで押切って、その分は3回目の公演に突っ込むのかなと制作的予算配分も頭をよぎりましたが、パワーマイムで観劇人生を始めた人間としてはむしろこういう素舞台で動き回る芝居のほうが好きだったりします。5日間やればまだ伸びそうな印象を受けたので、できれば千秋楽と見比べてみたかった。そういえば仮面舞踏会から納骨堂まで、ロミオとジュリエットも5日間の物語ですね。5日間走り抜けてほしいです。

朝日新聞社/有楽町朝日ホール主催「イッセー尾形の右往沙翁劇場」有楽町朝日ホール

<2024年12月6日(金)夜>

(1)友達と待合わせでデパートにやって来たが財布を家に忘れて母に持ってきてもらう娘「ロリータ」。(2)食品工場の責任者たちが記者を集めて謝罪する事件とは「謝罪会見」。(3)OL同士の井戸端会議「刈り上げOL」。(4)20年ぶりに北海道から東京に墓参りに来た老婦人だったが「墓がない」。(5)主任に呼ばれたベテラン職人が頭にかぶせられて言われるには「長年のカンをデータ化」。(6)邪気を払ってもらいた人たちが集まった神社で「神主のお祓い」。(7)紙芝居屋から立体芝居屋に転身した男が語る「雪子の冒険 小樽編」。(8)漁港で船員たちを相手にバーを開くママ「オーロラ銀座」。

初日。イッセー尾形の一人芝居。観終わった後に「新作が多くて面白かった」と話していた常連客らしき人の声が聞こえたので、内容とロビーの写真も含めて考えるに(1)(6)が再演、(7)(8)がシリーズものの新作、他が新作、と想像。個人的には(2)(4)(6)を楽しんだ。(7)は仮面を使ってやるのだけど仮面が多すぎて途中で見つからなくなって、こういうトラブルもまた芝居の醍醐味。(8)はちょっと声が小さかったのと席からは後ろ向きだったので歌がきちんと聞こえなかったのが残念。イッセー尾形の一人芝居を観るのは二度目ですけど、力押しの演目は今回は少な目でした。

ロビーに大量に仮面や人形が展示してあって、何かと思ったら宮沢賢治の話にちなんで全部イッセー尾形が作ったものらしい。とにかく作る人なんですね。

2024年12月 1日 (日)

松竹製作「朧の森に棲む鬼(尾上松也主演版)」新橋演舞場

<2024年11月30日(土)夜>

粗筋と役者以外の話は昼の回参照。

初演のキャスティングは古田新太以外は忘れていたのですが、観終わってから初演のキャストを検索したら、そもそも主演が幸四郎(当時染五郎)でした。忘れているにもほどがある。

で、ダブルキャストの主演です。昼の回の幸四郎は出だしのまだ軽い場面と、終盤で牢屋以降の悪人全開になる場面はさすがでした。夜の回の尾上松也も上手で、ツナに取入るところからの中盤は幸四郎よりいいんじゃないかという場面も多数です。この違いは初日であるだけでなく、両者のニンというのでしょうか。やっぱり幸四郎は三の線の似合う役者なので、取入るために嘘を付き続ける、肚の中で演技する中盤はどうしても軽くなるな、というのは初演と変わらない感想です。もう1役である四天王の1人、サダミツを演じているときはそれがいい方に働いて、こういうキャラなんだなとなるのですが。といって、サダミツを真面目にやった尾上松也はこれもいい出来でした。なので話が目当てならどちらを観ても構わないし、贔屓の役者がいるならそちらを選べばいいです。公演の間にどこまで変わるかが注目。

他の役者ですが、やっぱり上手なんですよ、みんな。その中で役どころもあって挙げておきたいのはツナの中村時蔵とマダレの市川猿弥。物語の要となる役どころを揺れる心と貫録とで十二分に出してていました。若首領のまっすぐさを出しつつチャンバラで一人だけ剣が速い市川染五郎は成長著しいので歌舞伎古典がどうなるか注目です。この3人以外にも、派手目な役と愛嬌もこなした大君の奥方シキブの坂東新悟も、肩の力の抜けた大君の坂東彌十郎もいいなあという人は多いでしょう。人懐っこくて身体が動いくキンタの尾上右近、悪いアラドウジの役を楽しそうにやった澤村宗之助、もう少し観たかったウラベの片岡亀蔵とショウゲンの大谷廣太郎。好きに選べって感じですね。名前の出てこない脇も含めて初日からいい出来です。

ただ、まだ初演のキャスティングを検索する前から、何となくこれは初演ではこの役者がやったのかなと見える役もちょいちょいありました。それだけ初演に役者が集まっていたということでもあるし、役者を考えての当て書きをしたこともあるのでしょうが、まだまだ工夫のしどころもあるのかなとは帰り道に考えました。

あと、殺陣の場面だったりその場面の主軸が台詞をセンターで話しているときに、脇で棒立ちになっている役者が多いのは気になりました。ちょっと身構えるだけでも全然違うのだから、そこは直してほしいです。

松竹製作「朧の森に棲む鬼(松本幸四郎主演版)」新橋演舞場

<2024年11月30日(土)昼>

とある島国では大君を抱くエイアン国が、金山を持つオーエ国に戦を仕掛ける戦乱の日々だった。そんな中で落武者狩りをして稼ぐ口のよく回るライと弟分のキンタ。だがその最中に朧の森に迷い込んだライは鬼から王になる啓示を剣を受ける。やがて鬼の予言通りに出会った男を倒すと、それはオーエ国と通じようとしていたエイアン国の武将だった。その場で出会ったオーエ国の族長を騙して秘密の約束を結んだライは、エイアン国の都に乗りこんで悪人の親玉マダレと通じると、武将の最後を報せるとその妻で検非違使長官ツナに取入り、口先と仕込みを駆使してエイアン国の中での地位を着々と固めていく。

初日。幸四郎が主演のライを演じる版。出来は上々、3日やったらやめられないというくらいのカーテンコールでした。すっかり話を忘れていましたけどお裁きの場面で観たことがあるなと思い出して、だけど粗筋はまったく忘れていたのでそのまま楽しめました。忘れっぽいことにもいいことがあります。

初めは夜の回のチケットを取ったのですが、後で昼の回の安い席を見つけたのでそちらを足しての1日2公演観劇です。こういう馬鹿な観劇を一度やってみたかったんです。役者寸評は夜の回で。先に3つ書いておきます。

まず、主演で演出は変わりません。照明美術きっかけありとあらゆるスタッフワークを駆使しているので演出を変える余裕はないというほうが正しいか。なので話が目当てならどちらを観ても構わないし、贔屓の役者がいるならそちらを選べばいいです。

それよりは座席のほうが大事で、花道のセリより客席側は出入り以外にほとんど使いませんけど、セリのあたりで演技することが多いのであそこが見えない下手サイド席だとモニターはあってもストレスになると思います。私は上手サイド席だったのでむしろ観やすかった。代わりに宙乗りが近いですけどそこは求めるものに応じて判断を。

あとは音響。初日のせいか出だしの朧の森の場面で台詞がいまいちわからず、特に昼のサイド席はさっぱりでした。かといって夜の回の1階席ならわかりやすいかというとそうでもない。あの場面がわからないとそのあとの展開もわからなくなります。新橋演舞場も初めてではないはずなので、何とか調整してほしいです。

2024年11月24日 (日)

新国立劇場演劇研修所の21期生募集とコクーンアクターズスタジオの2期生募集

新国立劇場の演劇研修所もそんなに長く続いているのかと驚きました。3年間の本格的な研修所で、入所費用は33000円、年額授業料は242000円と決して安くありませんが、奨学金が2年目から出ますからこの手の研修所では負担は少ない方です。応募締切は年内ですが、その前に「ロミオとジュリエット」の試演会がありますから、応募したい人は雰囲気を確かめてから応募できます。

そしてコクーンアクターズスタジオは1年だけの活動だと考えていましたが、2期生募集の案内を見かけました。1年間の研修で入学金160000円と授業料260000円です。1期生の公演が3月に行なわれますが、応募締切が年内なので、こちらは雰囲気を確かめることができません。が、講師陣の顔ぶれとコメントを読めば何となく伝わります。

研修所としては真逆にあるだろう2つで、3年かけて役者の地力を鍛えようとする新国立劇場は台詞に重きを置いています。コクーンアクターズスタジオは笑いを外せない要素の1つに据えています。新劇出身の芸術監督が多く、そこから所長にスライドする新国立劇場と、松尾スズキが芸術監督と主任を務めるコクーンとでは、それは性格も違うだろうというものです。

ただまあ、どちらの研修所がいいとか悪いとかではなく、1人の人間として物事の捉え方というものがありますよね。結局そこがしっかりしているかどうかが続く役者になれるかどうかの分かれ道ではないかと近頃は考えるようになりました。別の言い方をすると、演出家が務まるような能力も役者には必要ではないかということです。これには脚本の世界をどう捉えてどう立上げるかを考えられる能力という意味と、役者から制作まで集団を考えながら芝居に足並みを揃えられるかどうかという意味とがあります。ちなみに売れるかどうかは実力+色気+運です。

大変な時代ですが、その道を選んで入った人たちにはぜひとも活躍してほしいと願っております。

世田谷パブリックシアター企画制作「ロボット」シアタートラム

<2024年11月23日(土)夜>

生物を作り出すことを発明した博士とその甥から幾年、とある島では生物的には人間と同じ器官を持ち、ただし感情や痛覚を持たない生き物を作って売っている工場があった。この生物はロボットと呼ばれ、世界中で引っ張りだこであった。この会社の社長令嬢がロボットの人権向上を目指して島に見学に訪れるが、島で働く数少ない人間である工場長に求婚されて島に残る。それから10年、社長令嬢の誕生日、1週間前から島に船がやって来ていなかった。

古典小説らしいですが、役者を信用して脚本演出したなという印象。出だしはさておき、それから10年で話を飛ばすところは字幕か何かを出しそうなものですが、舞台替えだけでそのまま押しました。向こうに大勢のロボットがいる場面で役者の演技が実に揃っていて、腕のある役者が集まっていました。何でもない場面を面白くやって盛上げる渡辺いっけいはさすがで、対照的に突然ネタを挟んでうけを狙ってくる菅原永二は、うん、この日は滑っていました。小劇場的演出の生理としてここでひと笑いほしいというのはわかるのですが、そこはもう少し別のところでやるように演出で整理してほしい。ただし役者全員、テンションを維持していたのはさすがです。話に出ていたレンガを模したであろう板で舞台美術を変えていくところは面白い。

物語はやっぱり古典らしいというか、三幕目に相当するところが蛇足といえば蛇足だし、今となっては終わり方も楽観的すぎる。けど、それも含めて古典じゃないですかね、という感想。「来てけつかるべき新世界」とこの「ロボット」との間を埋めるような芝居が望まれます。それが何というか、人類の未来への希望になるのではないかと。

新国立劇場主催「テーバイ」新国立劇場小劇場(ネタバレあり)

<2024年11月23日(土)昼>

古代ギリシャ、疫病の蔓延するテーバイの国を救うために悩んでいるオイディプス王は、先王を殺した犯人を追放するようにとの神託を得る。だがそれを調べるうちに他ならぬ自分がその犯人だと知ることになったオイディプスは、己の目を潰し、子供たちを妻の弟であるクレオンに託して自らに追放の命令を下す(「オイディプス王」)。その命令は叶えられずに幽閉されていたが、あるとき市民による追放の決定を受けて追放されることになる。従ったのは長女のアンティゴネただ一人。長年の放浪の末にやがてたどり着いたのはアテナイにある復讐の女神に呪われた森。若い日に受けた神託の場所だとオイディプスは死に場所をそこに定め、アテナイを収めるテセウスに後始末を頼む。そのころテーバイではクレオンから1年交代で王を務めるように託されていたオイディプスの息子のポリュネイケスとエテオクレスが王権を争っていた。オイディプスの身柄を得たものが勝つとの神託が出て、クレオンと長男ポリュネイケスと次女イスメネがオイディプスの元にやってくるが、オイディプスは全員を拒否する(「コロノスのオイディプス」)。やがてテーバイの戦は終わったが、ポリュネイケスとエテオクレスはともに亡くなる。自らも長男メノイケウスを亡くしたクレオンは再び王座に就き、テーバイの国をまとめるために他国の軍勢を率いてテーバイを攻めたポリュネイケスの埋葬を禁ずる。だがポリュネイケスと仲のよかったアンティゴネは放置された亡骸に砂と花を撒いて捕まる。クレオンたちの前に連れてこられたアンティゴネは亡くなった兄弟を悼むことの何がいけないのだと謝らない。国を治めるために一度はアンティゴネの幽閉を決めたクレオンだが、信頼する預言者テイレシアスに諭されて撤回するが、時すでに遅かった(「アンティゴネ」)。

テーバイを巡る3本のギリシャ悲劇をつなげて1つの物語にすることで、オイディプス王の悲劇と、クレオンとアンティゴネの悲劇が一層深まる脚本は見事で、それでいて一連の出来事の関連がよくわかるように整理されている。その点は、長年を掛けて戯曲に取組む新国立劇場のこつこつプロジェクトとしてはまず成功の部類と言ってもいいのでは。

ただし演出では好き嫌いが分かれるところ。服装や小道具の一部を現代風にしたところは今更気にならない。ただ、本筋としてクレオンに焦点を当てたのはいいけど、それがよく言えば現代の身近な造形、悪く言えば小さく描きすぎたうらみがある。やはりギリシャ悲劇の登場人物、それも国の運営に携わった人間として、神々の神託という形で示される運命に振回されるためには、もっと大きく構えたほうが個人的には好みだった。

クレオンを小さく描くなら、対にするべきは久保酎吉演ずるテセウスだったはずで、こちらは埋葬の問題にかこつけてテーバイを攻めるぞと後半パートで使者を出すやり手です。市民代表とかどうとかはおまけで、そこはクレオンの「市民が代表を選ぶ制度がいいのではなく、そこにテセウスがいたのだろう」という台詞が掘り甲斐のあるところだったはずですが、「コロノスのオイディプス」に出てきたテセウスは無茶苦茶話の分かるおじさんでした。そこはもう少し、強かな面を混ぜてほしかった。そうすると話が混乱するかもしれませんが、そこに解決の糸口を見つけるようなこともできるのがこつこつプロジェクトのはずであって。

全体に、初めて観た「コロノスのオイディプス」のパートが、役者の自由度が高いというか、熱量が一番込められているように見えたのが、いいのか悪いのかわからない。あのパートでクレオンがアンティゴネに詰られて「あのときはああするしかなかった!」と声を張る魂の叫び、オイディプスが息子のポリュネイケスに双方が殺しあって亡くなると呪いをかける声、あれはよかった。

なので主要3人の寸評ですが、散々書いたクレオンの植本純米は、実力はわかっていても演出と折合いを付けすぎでした。オイディプスの今井朋彦も実力派で好きな役者の一人ですが、一番初めのオイディプス王はさらに大きく演じてほしかった。アンティゴネの加藤理恵は脚本の被害者というか、「コロノスのオイディプス」でオイディプスに付添った苦労や舐めた辛酸の数々があってなお兄弟の埋葬に拘るアンティゴネを演じるためにはネックレス以上の大きさがほしかった。全体にほしかったのは大きさです。前に観て比べているのが蜷川幸雄演出野村萬斎主演の「オイディプス王」と栗山民也演出生瀬勝久蒼井優の「アンチゴーヌ」なので比べるなという話なんですが。

ただ、発声がいい感じで、あれは1音1音ごとにはっきり話すような台詞術を意識していたのでしょうか。非常に合っていました。古典芝居にはこの方が似合いますね。それに気が付いたのは高川裕也演ずるテイレシアスの台詞に妙な説得力を感じたからです。いい感じと思って調べたら無名塾出身で、納得でした。

あとは簡素な舞台美術や範囲を絞った照明、あまり明るくない音響にすっきりさせた衣装、すべて芝居の雰囲気に合っていて、スタッフワークは安心と信頼の新国立劇場芝居。ただ、近頃は音響で芝居を盛上げる演出が減っていて、なくて成立つものならない方がいいと考えるのはわからないでもないけど、音響含めてもう少し盛上げてもよかった。これは別の座組みと別の演出家でも観てみたい。

2024年11月17日 (日)

新国立劇場主催「眠れる森の美女」新国立劇場オペラパレス

<2024年11月3日(日)夜>

幼い姫の洗礼式に王と王妃は森の精たちも呼ぶが、式典長の手違いで呼ばれなかった精霊カラボスが洗礼式に乗りこんできて、姫が針を指に刺して亡くなるだろうと予言する。やがて育った姫は、カラボスの持ちこんだ針を指に刺してしまい亡くなりそうになるところ、森の精が城中の人間を眠らせて城を茨で覆う。100年後に狩りで現地を通りかかった王子は森の精にいざなわれてカラボスを倒し、城の人間は目を覚まして姫と王子は結ばれる。

そういえば一度くらい観ておきたいと思い立ってバレエ観劇。ああこんな話だったんだとあらためて感心。冗談抜きの天井桟敷席で観たけれど、少なくとも正面寄りであれば音楽は遜色なしに聴けるし、上から見下ろすのでダンスのフォーメーションがわかるから、バレエならこれはありだなという発見だった。そのくらいの遠目で観てもおっ上手と思わされたのは姫の池田理沙子で、やっぱりタイトルロールはそれなりの人が張っていました。

こまつ座「太鼓たたいて笛ふいて」紀伊國屋サザンシアター

<2024年11月3日(日)昼>

「放浪記」で売れた林芙美子。二人暮らしで元行商人の母は小説なんていつ書けなくなるかわからないと必死に切詰めた暮らしを送る。やがて出版した本が発禁処分になってしまうが、ここで腐れ縁の音楽業界の男から従軍記者の仕事をもらう。初めは調子よく書いていたのだが・・・。

初演を観ていたけど中身はすっかり忘れてこの再演。今観たらあれで反省した気分にならないでくれという後半だけど、それはそれとしてよく出来ているのはさすが。序盤の台詞にあった、昔の貧乏暮らしの種を全部売ったらもう書くことがなくなるかもしれない(大意)という台詞は当時の井上ひさしの気分もあったかなかったか。

ただし、役者としてメインを張る大竹しのぶが、強かな面は出せているにしても「あれっ」というくらいのパワー不足。この劇場でその程度の声では本当かよと疑ってしまった。それに合せたか、周りの役者も小さく始まったけど、そちらはそのうち解消。母親役があまりに上手で、誰だこれと休憩時間に確かめたら高田聖子でびっくり。新感線からこんな役までなんと幅の広いことよと感心しきり。あとは音楽業界から渡り歩いていく胡散臭いプロデューサーの福井晶一はここぞというところで声を張って盛上げてくれる。だけど主人公の大竹しのぶがあのパワー不足ではちと厳しい。この日限りの出来か今の実力かは不明だけど、まあまあいい歳になっているからマイクなしの芝居は厳しいか。

松竹製作「明治座 十一月花形歌舞伎 夜の部」明治座

<2024年11月2日(土)夜>

敵味方に分かれた夫婦、戦の最中に病床の母を見舞いに訪れたものの母は面会を拒む、そして追手がやって来るが「鎌倉三代記」。刀を紛失してお家取潰しになった息子、その刀を手に入れて折紙を盗み取った番頭、あとあれこれ「お染の七役」。

「鎌倉三代記」は義太夫狂言で苦手なのですが、観たことがあって筋は知っていたので何とか。役者が全員凛々しいのだから義太夫でなしに観たいところ。勘九郎がどんと化ける高綱が見どころの一つ。「お染の七役」は七之助が七役を演じるのがもちろん見どころで、素早く化けてきっちり役も使い分けるのが見事。他の役者も合せてこれがこの日一番の出し物。何となく刀を盗んだ盗まれてお家が取潰しだというのは昔の定番の筋なんでしょうか。

この日1日観た感想では、役者が化けるところを見せる演目を揃えてみたのかなという感じ。勘九郎七之助の腕前を見せつけられました。

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