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2023年5月29日 (月)

インプレッション製作「ART」世田谷パブリックシアター

<2023年5月28日(日)昼>

ここしばらく現代アートに熱中してきた皮膚科のセルジュは、大金をはたいて巨匠の白い絵を買ってきた。エンジニアの親友のマルクを我が家に呼んでお披露目したところ、マルクがこの絵と、絵を買ったセルジュをけなしたことで2人は険悪になる。この2人の親友のイヴァンは双方から話を聞くが、自分の結婚準備が忙しいのも相まって話がうまくできない。3人が集まって楽しむ予定の晩、お互いが歩み寄ろうとしていたが・・・。

ヤスミナ・レザの翻訳物。観たことのある芝居だと「LIFE LIFE LIFE」があります。イッセー尾形、小日向文世、大泉洋という人気者3人が揃ってつまらないはずがなく、実際面白かったのですが、少しひねって来ました。それも含めて面白かったです。

相手の持っている絵をコケにするところから始まって、3人の男の会話のすれ違いから段々と剣呑な雰囲気が高まっていく展開。3人それぞれが性格に欠点があって、だけど相手を非難するときは的確に非難するという、非常に面倒くさい3人です。これを素直に丁々発止で上演すればコメディーですし、実際、笑える場面も多数ありました。

けど、少なくともイッセー尾形はその脚本の流れから外してきました。もう少しこう、喧嘩をするおっさんのみっともなさと、そんなおっさんだけど一寸の虫にも五分の魂があるんだぞというあたりを狙ってきました。おそらく、十五年来の親友でいい年なのにフランス人とはいえこんな露骨に喧嘩をするものかという辺り、脚本の人物造形に一言あったのだと思います。サブテキストを含めて、ごっそり自分のやりたい方向に引寄せた印象です。

小日向文世もおそらくイッセー尾形に乗っていたはずですが、これはちょっと上手すぎてどのくらいずらしたのかさっぱりわかりませんでした。嫌味になりすぎないように注意していたのはわかりましたが、脚本通りものすごく自然に演じたようにも見えるし、脚本よりは丸めたと言えなくもありません。3人の中では一段若い、とはいっても40歳の友人の設定の大泉洋は、ここまで独身だった男の稚気を、脚本が許す範囲と、実際にいそうだな、という範囲の間で最大限デフォルメすることを狙っていたようです。

で、三者三様で微妙に方向性の違う役作りがどうだったかというと、そもそも喧嘩する設定と相まって、面白かったです。何に感心したって、途中からはおっさん3人の喧嘩が続くのに、うるさくない。途中でダレたり、特定の誰かに肩入れして敵味方を作りたくなりそうなものですけど、誰の方向にも倒れそうで倒れないコマが最後まで回りきってラストにつながりました。あれは並の役者には務まらない。脚本には、芸術には不思議な力があるというメタなメッセージもあったように思いますが、それも含めて成功していました。

この3人の出演で演出家が小川絵梨子だと2020年の案内で知ったときに、さすが人気者の演出をまかされるとは売れっ子演出家だ、くらいの感想でした。でもこの、多少笑いを犠牲にしてもずれを生かして最後まで持っていくのは、他にできる人がいないとまではいいませんが、小川絵梨子ならではの演出でした。同じ小川絵梨子演出の「おやすみ、お母さん」で那須凜が狙って及ばなかったことをイッセー尾形は成立させていました。逆かな。新型コロナウイルスで途中で公演中止になったとはいえ、すでにこういう実例を成立させていたから、「おやすみ、お母さん」でも挑戦してみたのかもしれません。

あと、新国立劇場主催の芝居に実験的、育成的な要素が多いだけ、こういう人気者の芝居を芸術監督自らが再演の機会に新国立劇場に引張ってきてもいいと思うのですが如何。天井が高くても両端の間口をがっちり作っているから案外コンパクトにできるんですよね、世田谷パブリックシアターは。観る分には世田谷パブリックシアターで贅沢させてもらいましたが。それとも前回の上演計画を全うするためにはしょうがなかったか。

木ノ下歌舞伎「糸井版 摂州合邦辻」神奈川芸術劇場大スタジオ

<2023年5月27日(土)夜>

俊徳丸はそのあたり一帯を治める高安の息子。正室だった産みの母は亡くなり、ほとんど歳の変わらない継母の玉手御前と、高安の妾の子である兄の次郎丸と暮らす。高安が病がちになり、家督が俊徳丸に譲られること納得いかずまた俊徳丸の婚約者に横恋慕している次郎丸は俊徳丸を亡き者にしようとし、玉手御前は俊徳丸に懸想したと迫ろうとする。

話だけなら古典で、いろいろあって実は、という話だけれども、いろいろなフォーマットを混ぜこぜにしているのに一本の芝居になっている、なんとも不思議な、だけど本筋の芝居は楽しめた、よくできた芝居でした。

日本の小劇場はいろいろなことをやるものですけど、今回はまたいろいろだらけでした。古典を現代の服で上演するのはまあ観たことはある。オリジナルと思しき場面はオリジナルの言葉で上演するのは木ノ下歌舞伎がそういうものだと聞いていたから知っていたけど、現地イントネーションで進めるのは想定外。そこに物語の補足で後から現代語の場面を足すのは想定外だったし、さらに物語の補足と言えるような言えないような場面まで足してくるのも想定外。それを現代風の歌詞を使った妙ージカルで振付付きで演出するのはやっぱり想定外(よく読めば糸井版って書いてあるから思いつきそうなものですが)。そして太夫とバイオリンとトランペットで語りまで入れて、てんこ盛りです。

これだけごった煮にしたら普通は訳が分からなくなりそうなものですけど、3演目のためか役者が馴染んで当たり前のようにこなしていることで、完成形が見られました。おおむね成功していました。いまある都会の昔の場所が舞台の話ですよという導入と、神代の昔から現代に至るまで続く夫婦親子の情という背景の補強を通して、極端な物語に思えるかもしれないけどそんなこともないよと言えるラインまで芝居側に歩み寄らせることを目指したのだという理解です。

成功でなくおおむね成功と言っているのは音楽のところです。全般に一曲当たりの歌が長すぎた(特にオープニング)のと、後半に場面の割りに緩い音楽が流れたのと、字幕があってわからないことはなかったものの字幕に頼らないとわからない歌詞(特にパートごとに違う歌詞を歌う歌)は、妙ージカルとはいえ改善の余地ありです。でも後半の冒頭は歌も含めて好きでしたから、直しゃあいいってもんでもないのが、難しいです。

役者はなんて芸達者ばかりそろえたんだと思います。玉手御前でたまに大竹しのぶもかくやみたいな顔を見せたりした内田慈、オープニングで歌っているときから誰だと思った合邦道心の武谷公雄は挙げておきます。羽曳野の伊東沙保とか、合邦道心の妻の西田夏奈子とか、まあ見どころの多い役者陣でしたが、全員水準が高くてでこぼこを感じさせませんでした。

スタッフだと、美術は島次郎のクレジットが(角浜有香と合同で)残っていました。柱の組合せで抽象的に場面を切替えるのは小劇場らしい発想です。以前の木ノ下歌舞伎を当日券で見逃したから今回は観られてよかったです。

ただ客入りですが、惨憺たるものでした。土曜日とはいえ夜の公演が嫌われたか、次の日のアフタートーク付きの回に客が集中したか、3演目なので客側が落着いたか、横浜で9時終演というのが敬遠されたか。もったいないの一言です。興味がある人はこの機会に観ておきましょう。

あとは余談。この芝居は歌舞伎にもなっていますが、文楽がオリジナルです(それも、能とかいろいろな元ネタがあって作られましたが、「摂州合邦辻」のオリジナルが、という意味で)。ちょうどこの前に文楽を観て「ただでさえ耳で聞き取るのは難しい言葉をうなられるともっとわかりません」と書いたばかりなのですが、期せずして文楽の現代版アレンジを観ることになりました。

今回は極端なアレンジではありますが、これならいいかというと、文楽にとっては駄目ですね。脚本は生き残っていますが、これで役者を人形に替えても文楽らしさは残りません。ただ、武谷公雄が太夫相当の語りをつとめる場面が少しだけありますが、やっぱりはっきり語る余地はあるんじゃないかと思います。全部をはっきりとは言わなくとも、主なところだけでも。

あと、三味線以外にも楽器を足して、語りから音色要素の負担を分担する方法がないかと思います。和物の楽器を足すなら、笛だと音色が高すぎるから尺八かなと想像しますが、文楽規模の劇場だと太夫と三味線と管楽器とで音量のバランスをとるのが難しいですね。悩ましいです。

国立劇場主催「菅原伝授手習鑑 初段/二段目」国立劇場小劇場

<2023年5月19日(金)朝、昼>

 右大臣の菅原道真が左大臣の藤原時平から失脚を狙われる時勢の最中、菅原道真の姪にして養女の苅屋姫が宮様と密会中に見つかりそうになって逃げ落ちて行方不明になる。名筆の筆法を弟子に伝授するように帝から命じられた菅原道真は、屋敷に籠って手習鑑の製作に没頭していたためこの事件を把握していなかった。菅原道真は、手習鑑をかつて屋敷から追放した家来にして弟子だった武部源蔵に伝授するが、藤原時平によって失脚を謀られてしまう(初段)。失脚して大宰府に護送される途中、船の風待ちの間に姉の覚寿の屋敷に滞在することを許された菅原道真と、逃げ落ちている最中にそれを知った苅屋姫。実母の覚寿と姉の立田前の情けで苅屋姫も屋敷に滞在することは許されたが、自分が原因で追放される菅原道真とは顔を合わせられない。この滞在中、立田前の婿とその父は、自分の出世のために藤原時平の味方について、菅原道真の殺害を目論む(二段目)。

 「三谷文楽 其礼成心中」以来の文楽。頭からフルで上演してくれるため、菅原道真と藤原時平の対立がはっきりしてわかりやすいです。「なにそれの段」と場面ごとに名前がついていますが、この段ごとに太夫と三味線が入替っていく上演形式を観られたのはよかったです。

 で、この前にミュージカルを観たばかりだったこともありますけど、やっぱり文楽は日本流ミュージカルなのかなと思いました。そして、人間が演じる物語だと時間の運びに肉体の制限があるところを、太夫の語りと三味線の音楽、それに人形を使うことで、登場人物の内心の体感時間で運ぶことができるのは文楽ならではと思いました。二段目の最後に目いっぱい引張るあたりは特にそれを感じました。

 人形の動き方も実に滑らかで、人形遣いが顔を出して動かしていもまったく気になりませんでした。役者ならひとりでできるものを3人がかりで人形を動かして、でもそれで芝居に集中できるまで動かすんだから、すごいですよね。ただあれをやるには、人形が着物でないといけません。もろ肌を脱いで人形が身体を拭く場面もあったのですが、あれをずっとやるのはつらい。洋装の現代劇には向いていません。

 あとやはり、8割うなられると厳しいかったです。字幕も出ていたのでわからないことはないのですが、どうしてもそちらに目がいってしまいます。おかげで元の脚本の、特に地の部分に、口で伝えるにはややこしい言葉が多用されているのがわかりました。歌舞伎だって能狂言だって節回しがあるから、古典はそういうものだと言われればその通りですが、ただでさえ耳で聞き取るのは難しい言葉をうなられるともっとわかりません。

 かといって無声映画の弁士みたいにくっきりはっきりできるかというと、それをやると文楽の最大の特徴である、登場人物の内心の体感時間で運ぶところがおそらく死にます。なんというか、言葉を言葉として諦めて音として扱うことで成立つものがあったので、筋立ては頭に入れたうえで臨むのが一番楽しめると思います。

 ただ、どれだけよくできた脚本でも初見で楽しめない上演形式が現代で受けないのは、これはもうしょうがないですね。文楽が古典になってしまったのは理由があってのことだと思います。客席には外国人もいましたが、いっそ物語はイヤホンで追って、太夫の語りは音として聞いたほうが楽しめたかもしれません。

2023年5月18日 (木)

ホリプロ企画制作「ファインディング・ネバーランド」新国立劇場中劇場

<2023年5月17日(水)夜>

19世紀のロンドン。脚本家のジェームズは劇場主から新作を求められているが、注文はなるべく観客を驚かせないようにという。それで書いた脚本を、たまたま公園で会った未亡人のシルヴィアに見せたら以前観た脚本との共通点を指摘されてしまい、破棄する。落込んだ気分はシルヴィアの四人の息子たちと遊びながら回復させるが、子供たちと遊ぶ様子に妻からは大人になってほしいと責められるし、新作はまだ書けない。

それであれやこれやあって「ピーターパン」の初演ができます、というのは公式でも説明されている通り。歌ってよし踊ってよし芝居してよし、ミュージカル初心者の自分にも楽しめる王道の仕上がりでした。

ジェームズの山崎育三郎は初見で、なんとなく色ものの人かなと思っていましたけど、すいません、堂々たる主役でした。歌もうまいですけど、芝居から歌に入ってまた芝居に戻るのが自然ですね。対するシルヴィアの濱田めぐみは、初めから歌に合せて芝居パートの演技を少し派手目にするスタイル。これはこれで華やかでよかったです。

ミュージカル畑は全然詳しくありませんけど、歌も踊りも芝居も、脇も含めて観ていて戸惑う場面がまったくありませんでした。ひょっとして気合の入ったキャスティングだったのでしょうか。廣川三憲まで出ていたのはびっくりしました。ナイロン100℃からここにたどり着くのかと。

ただ登場人物では、子役の4人がすばらしかった。BELIEVEチームということで越永健太郎、生出真太郎、長谷川悠大、谷慶人の4人でしたけど、上から13歳、11歳、8歳、6歳であの歌と芝居ですよ。最近の子役はここまでできるのかという驚きと、ここまでできないといけないのかという驚きと、両方です。

スタッフも総じて高水準でしたが、ひとつだけ。演奏する楽器が多いときに声が埋もれがちでしたけど、ミュージカルの音響だとあんなものなのか、劇場の特性などで致し方ないものなのか、まだ調整の余地があるのか、どれなんでしょう。1階後方センターブロックだったので、座席の位置で音響の不利益を被ったことはなかったはずですが。

カーテンコールは2回目から全員スタンディングオベーションでしたけど、ミュージカル慣れしていない自分でもすごいなと思ったから、ミュージカル好きにはたまらなかったでしょう。エンターテインメントでした。

あとは余計な感想として、これは凝り固まった大人が童心を取りもどす話でもありますけど、たまたま同じ日の昼間に人の魂を扱った芝居を観ました。それで、疲れた人を受けとめるのがあちら、疲れた人に明日も頑張れと背中を押すのがこちら、みたいなことも思いました。なんか世の中みんな疲れているんですよね、やっぱり。

イキウメ「人魂を届けに」シアタートラム

<2023年5月17日(水)昼>

人里離れた森の奥の家で暮らす「お母さん」と住人たちの元に、刑務官の男がやってくる。執行に関わった死刑囚が死刑のときに身体から人魂が落ちた、気になって取っておいたが周りの人間に声が聞こえてうるさいから捨てて来いと言われた、書類上は前例がないので恩赦と書かれている、それなら死刑囚が「お母さん」と呼んでいたこちらに届けるべきと考えたから、という。人魂は受取られたが、家にいた一人は刑務官が森に来る前に会った男だった。時間が合わないはずなのになぜここにいるのか。刑務官は家で暮らす人たちと会話を始める。

よくわからないところから始まって観ていくうちに明らかになっていくのは、タイトル通り人の魂を扱った話。いかにもイキウメらしい芝居で、かつ非常に丁寧な仕上がりでした。丁寧というだけでは雑な感想なのですが、ちょっとうまい言葉が見つからない。

魂という切口で現実の問題を取上げるためにはオカルトに陥りすぎないことが必要です。昔のイキウメならもっとオカルトに振ってきたんじゃないかと思いますが、刑務官というメインの役を置くことでなるべく観客が戻ってこられるようにする工夫がされていました。たまに左派というかリベラルな話題が混じりますが、その辺は昔ながらのイキウメです。観ていて醒める前に終わりますから気にしないで観続けましょう。

ネタバレしないように書くのも難しいですが、平野の話と、応募の話はつらいものがありました。あとラスト、あれは昔のイキウメならそうしなかったよね、という感想です。今の時代っぽいラストでした。

演じる側もよかった。いつもだと安井順平が目立ちますけど、今回はゲストを含めて全員の水準が揃っていました。特別上手いとは言いませんけど、何ていうか、繊細ともまた違うし、一体感というのも違う。役者同士の絡みが少ない脚本で、自分の持ち場で掛軸の描かれた和紙を2枚に剥離する作業を求められて、それを役者ひとりひとりが全員うまくはがせたというか。意味不明ですいません。あと、篠井英介の使い方はちょっとずるいと思わなくはないですが、思いついたらやりたくなるのはわかります。

イキウメは、誰が観てもよくわかる話と、曖昧な設定で積極的に観にいかないと置いていかれる話と2パターンありますが、今回はそこまでひどくないものの後者寄りです。最後にきれいにつながりますが、前者の代表である「散歩する侵略者」とか「関数ドミノ」みたいな明快な話を期待した人には厳しいかもしれません。カーテンコールは2回でしたから。でも仕上がりは高水準でしたし、こちらのほうがイキウメの本分というか、根っこに近い芝居じゃないかと個人的には考えます。

2023年5月 8日 (月)

2023年5月6月のメモ

いろいろあって書くのが遅れましたが5月頭しか上演されないような芝居の取りこぼしはありません。

・国立劇場主催「菅原伝授手習鑑 初段/二段目」2023/05/11-05/30@国立劇場小劇場:9月に後半が上演される文楽の通し上演

・ホリプロ企画制作「ファインディング・ネバーランド」2023/05/15-06/05@新国立劇場中劇場:映画からのミュージカル化の翻訳物

・イキウメ「人魂を届けに」2023/05/16-06/11@シアタートラム:あらすじを読んだだけでは雰囲気しかわからない新作

・木ノ下歌舞伎「糸井版 摂州合邦辻」2023/05/26-06/04@神奈川芸術劇場大スタジオ:ここで一度観ておきたいのだけど

・インプレッション製作「ART」2023/05/27-06/11@世田谷パブリックシアター:コロナの入りのころに途中で公演中止になった芝居をオリジナルの3人で再演

・ハイバイ「再生」2023/06/01-06/11@東京芸術劇場シアターイースト:芝居なのかパフォーマンスなのかよくわからない1本

・松竹主催「義経千本桜」2023/06/03-06/25@歌舞伎座:夜の部に部分上演で仁左衛門だけど予算の都合で悩む

・新国立劇場主催「楽園」2023/06/08-06/25@新国立劇場小劇場:女優のみの新作芝居だけど重ためで観ようか悩む

・新国立劇場主催「白鳥の湖」2023/06/10-06/18@新国立劇場オペラパレス:一度くらい観ておきたいけど、この後でダイジェスト版がもっとお安く控えているので悩む

・野田地図「兎、波を走る」2023/06/17-07/30@東京芸術劇場プレイハウス:ほとんど隙のない役者陣で新作

今回情報を調べていて、記載内容不足で掲載を見送った芝居がありました。本家サイトに行っても詳細がよくわからず、あれは何をどうしてああなったんだろう。

2023年4月24日 (月)

株式会社パルコ企画製作「ラビット・ホール」PARCO劇場

<2023年4月23日(日)昼>

一人息子を車の事故で亡くして8か月、セラピーに通うのを止めた妻と通い続ける夫。家には子供の面影があちこちに残る。妻の妹は姉に気を使うも恋人の子供を妊娠し、妻の母は慰めようとして逆に積極的に息子の死を話題に持出す。妻と夫の関係がぎくしゃくしたある日、事故の車を運転していた青年から一度会いたいと手紙が届く。

機微に触れる話題が最初から最後まで続く脚本。どこかで気を抜くと全部が駄目になる脚本を、役者、スタッフ、演出家が同じ目標を目指して仕上げた1本。迷ったけど観てよかったと断言できます。

宮澤エマ演じる妻の、まだ立ち直れているようないないような心境を、周りがかき回してやっぱり立ち直れていないところが続くところ。成河演じる夫の、立ち直っているように見えて引きずりつつ夫の義務と妻への諦めの合間で悩むところ。シルビア・グラブ演じる母の、強引と母は強しの両立。土井ケイト演じる妹の、この芝居唯一の癒し系おとぼけポジションを維持しながら正面から言葉をぶつけるたくましさ(笑)。観た回では山﨑光が演じた青年の、悪気はないし反省もしているけど空気も読めない絶妙のライン。全員、脚本の求める理屈に魂を込めることに成功した役作りでした。

直線を多用した舞台、転換時の線のはっきりした照明、シンプルな音楽、柄の少ない衣装は、ソリッドという言葉を体現した一体感を持たせて、芝居の緊張感を保つのに一役買っていました。そういう面も含めて、演出の藤田俊太郎がよくぞ最後まで繊細さを実現して引っ張りきりました。

この脚本は意地悪なところがあって、妻の心境の変化は丁寧に追うけど夫の心境は観客の推測に任せているし、思い出のビデオを消してしまったのが妻の間違いなのかわざとなのかはわからないしで、演出と役者にゆだねられているところが多い。でも、ありそうやりそうわかるかも、の連続ですね。後半のわりと後半まで引っ張っての、ふっと抜けるところは絶妙です。けど、夫の職業がリスク管理会社のマネージャーだったか、あの傷に塩を塗るような設定は、聞いて内心泣かずにはいられなかった。

ひとつだけ難を挙げるなら、翻訳。たまたま前日と同じ小田島創志の翻訳だったけど、こっちのほうがなんというか、たまに印象がぶれるときがあった。特に序盤。自然な言葉を目指すために稽古場で役者が変更を提案して、翻訳者が片っ端から通したってどこかのインタビューで読んだけど、詰め切れていなかったと思う。多少ならまだしも、翻訳者が責任を持って統括して、役者がそこに魂を込めていくほうがいいのではないか。

新国立劇場主催「エンジェルス・イン・アメリカ(第一部、第二部)」新国立劇場小劇場

<2023年4月22日(土)昼、夜>

1980年代のアメリカ。ゲイ同士で同居しているプライアーとルイスだが、プライアーのエイズ感染がきっかけでルイスが家を出る。ゲイであることを隠して結婚しているジョーは師とも父とも仰ぐ辣腕弁護士ロイ・コーンから引っ越しを伴う栄転を持ちかけられるが、妻ハーパーの情緒不安定のために話を受けるか悩む。あくどい弁護も多数手掛けたロイ・コーンは追及をかわすためにジョーの栄転を後押しするが、エイズであると診断される。大勢が混乱する中、ルイスとジョーが出会い、プライアーは天使から自身が預言者と告げられる。

これでもかと要素が詰め込まれてあらすじを書くのに難儀する大作です。ざっくり順不同で、隠すことが今よりも当たり前とされていたゲイの社会的な認められなさ、当時は死に至る病と恐れられていたエイズであること、政治的に強い立場にいる人間のせまいコミュニティ内のつながりを利用した横暴、薬物を常用するような人間の増加、白人と黒人(とユダヤ人)の対立、個人にとっての宗教と信仰の位置づけ、危機に瀕する社会主義と対立がひどい民主主義、それら全部をひっくるめて融和せずに対立と分断が激しい保守派とリベラル派の争い、みたいな感じでしょうか。お腹いっぱいです。

多分この中で、いまどきのLGBTな話、新型コロナウィルスで広まった感染症による死の恐怖、貧富の拡大による社会の分断、あたりが今の日本でも想像されるものがあると考えて上演を決めたのでしょう。それはわかるのですが、当てはまるものもあれば当てはまらないものもあり、それはしょうがないです。が、仕上がりの良かったところと悪かったところがあり、結果は悪かった部分が目立って、終演後は消化不良という感想でした。

先に良かったところを挙げると、ベテラン役者陣はさすがでした。ロイ・コーンを演じた山西惇、ジョーの母親をメインにしつつそのほかのチョイ役の大半を担った那須佐代子、ゲイで黒人の看護師のベリーズを演じた浅野雅博の3人は文句なし。ハーパーの鈴木杏と天使役の水夏希も別々の方向で難しい役だったところを好演でした。

個人的には「チック」以来の七変化を見せてくれた那須佐代子がイチ押しで、真面目にできる役は真面目に、真面目にやると無理がでる役は説得力優先で、とにかく担当したすべての役を専任役以上の水準で見せてくれました。那須佐代子の出る場面に外れなしです。第二部冒頭の社会主義の演説、好きでした。

山西惇は辣腕弁護士として、堂々の差別発言と、法律的にも倫理的にも問題な横暴を通しつつ、ジョーをコミュニティの仲間として引張りこもうとする場面の説得など、縦にも横にも斜めにも問題大ありな役です。なのに、この人はこういう生き方を自覚的に貫いてきたんだなと、盗人にも三分の理のようなものを感じさせてくれました。

そして日本人には設定が多すぎてお腹いっぱいなベリーズを演じた浅野雅博は、全体にトーンを押さえて、それがむしろ説得力や注目につながっていました。第二部の、直球の差別発言を連発するロイ・コーンを相手に落ちついて的確に反論しつつ、看護婦としての職業倫理を全うする場面はすばらしいです。

鈴木杏は情緒不安定になるといろいろな場面に飛ぶ役ですが、さすがのキャリアで捌いていました。天使にしては片桐はいりがやるような役ではないかという無茶な面(笑)もある役を引受けた水夏希は、元宝塚トップの貫録でこなしつつ、そのほかのチョイ役が美しいのもさすがでした。

スタッフワークだと、このてんこ盛りお腹いっぱいな脚本を、てんこ盛りお腹いっぱいのレベルまで伝えてくれた翻訳を挙げます。硬軟入り混じったうえに長い脚本ですが、終わってから思い返すまで翻訳についてまったく気にしていませんでした。仕上がりのよい翻訳だと思います。

だから見どころのたくさんある芝居でした。ですが、それ以上に残念が目立ちました。

まずは役者。ベテラン陣に対して、プライアーの岩永達也、ルイスの長村航希、ジョーの坂本慶介が熱演なのはわかりますがいまいちでした。

坂本慶介はジョーの優しさを出そうとしすぎて役の輪郭がぼやけて脚本に負けていました。長村航希は結構問題発言の多い役のルイスですが、問題発言が不愉快に聞こえるのは駄目です。山西惇が問題発言連発でもむしろ引込まれるのと正反対でした。そして個人的に一番駄目だったのが岩永達也。恐怖でパニックになる場面のプライアーが絶望でなく泣き言に聞こえたのも駄目ですが、それよりも台詞全般にテンポが悪いのが駄目でした。独白でも掛け合いでも出だしが遅いのと、芝居のテンポに乗らない単調な台詞の速度でした。耳が芝居に参加していません。群像劇ですけど主役といえる出番の役者がこれではつらい。

この三人の感想、普通の芝居なら頑張ったけど力及ばずで済ませるのですが、今回は高いチケット代に加えてフルオーディションした芝居であることを表に出した企画です。1600人から選んでその仕上がりですかと文句を言わざるを得ません。もちろん、1600人の中にはベテラン陣が演じた役だって含まれるのですが、那須佐代子と浅野雅博なんてオーディションしないでも新国立劇場の主催なら真っ先に候補に挙がる役者でしょう。選んだ最終決定権が誰にあったかまでは把握していませんが、もう少し耳も使って選んでほしいです。

今回の出来を見た限り、私は新国立劇場にフルオーディション企画を行なう余裕はあってもを生かす能力はないと判断します。一観客の意見としては、フルではなく部分オーディションにして、時間と選択眼を限られた役に集中するべきだと考えました。少なくともオーディション慣れするまでは。

そしてスタッフワーク。新国立劇場でここまでスタッフワークでぐだぐだになるとは。

まず音響が、選曲がなんかちぐはぐでした。当時の音楽に寄せるでもなく、盛上げに全振りするわけでもなく、なんとなく手元にあった曲を流しているような雰囲気です。第一部のラストだけはわかりました。あの場面はあのくらい派手な曲で強引に締めないといけない。でもあとはいまいちでした。

あと舞台効果というか、天使や天界の扱い。安全もあるからワイヤー多めで降ろすのは理解できる。でも降りた天使のワイヤーの付け外しに堂々と舞台スタッフが出てきたり、舞台セットのベッドを堂々と避けたりするのは興ざめです。あと天界に上る梯子をスタッフが見える形で横に流したのも。上下を使いたいのはわかるのですが、あの辺は舞台奥なのだから隠す手段を検討してほしかった。ト書きがどうなっていたかはわからないけど、無理に天井から降ろさなくてもよかった。

キレイ」なんかはどうやっていたかなあ。カスミお嬢様がブランコに座って降りてきて、バンジーでワイヤー1本でぶら下がって、降ろして、自分で外したか執事の格好をしたスタッフが外したか。覚えていないけど、覚えていないくらいに素早く捌いていた。そういえば今回の座組みに四代目カスミお嬢様がいますね。ハーパー。

そういういろいろ、個人的には駄目だと思った部分が多いので、ひっくるめて演出家の上村聡史が脚本に負けたという判定です。演出ではもうひとつ。ロイ・コーンとジョーが父だ息子だと慕いあう場面があって肯定的に描かれているのですが、あれは「ホモソーシャルな社会」とか「オールド・ボーイズ・ネットワーク」という問題提起もあったんじゃないかなと思っています。なにしろ問題のない場面がほとんどない芝居ですから。

あと脚本について文句を言うのもなんですが、いろいろ時代が進んだ結果、LGBTや人種問題がポリコレとかキャンセルカルチャーに結びついて、アメリカではディズニーすら原作改変するような事態になっています。そのあたり、表現の自由とか原作尊重との兼合いはどうなんだとまで言いたくなるような昨今、それら問題に対して同情的な扱いの多い脚本は、時代とはいえ楽観的でしたねという冷めた感想も持ってしまいます。戦って権利を勝ち取るのがアメリカでは日常であることと、このころからすでに病んでいたんだというのは伝わりましたが。

で、片桐はいりとか「キレイ」とかを思い出しながら、この脚本は松尾スズキが演出したらよかったんじゃないかなとぼんやり思いました。なんか、観終わった直後はたくさんの重たいテーマの割に小劇場っぽかったと思ったんですよね。特に、日本では身近にないテーマも多かったので、もう少し小劇場っぽい手法で戯画化して納得や説得につなげるようなこともありだったんじゃないかなと。小劇場っぽい手法ってどんなだと言われても困りますけど、野田秀樹の言葉を借りれば「省略と誇張」です。

2023年4月18日 (火)

松竹主催「四月大歌舞伎 夜の部」歌舞伎座

<2023年4月14日(金)夜>

弟に遠慮して実家に近づかない大店の若旦那与三郎は、見物に来た木更津の浜辺で地元の顔役の妾となっているお富と互いに一目ぼれをして密会するも、顔役に知られることとなり与三郎は全身を切られて海に投げ込まれてお富は身投げをする、それから3年後「与話情浮名横櫛」。獅子は子を千尋の谷に突き落とすというアレ「連獅子」。

仁左衛門玉三郎の与話情浮名横櫛。話自体はどうってことはない。とにかく与三郎演じる仁左衛門が色っぽい。優男の前半は、お富と出会って互いに意識する場面から、遠ざかるお富を見送ってふらふらする場面までが最高です。その後でお富と密会するもお富のほうが積極的で覚悟を決めるまではやや腰が引けているあたりも実に優男。それが後半、破落戸風情で変わるところも見事。

颯爽と現れる冒頭に、一階席をぐるりと一周するサービス演出まで含めて、仁左衛門ったら仁左衛門の芝居。これは仁左衛門が休演したら代役を建てずに夜の部丸ごと休演するのもわかる。なまなかな役者では金返せになる。

ただ二月も思ったけど仁左衛門は声が少し落ちている。もう少し張った声が出せると後半の破落戸は良かった。お富役の玉三郎が海を背景にした仁左衛門に「ほんに、いい景色」という場面とか、密会している2人を襲う顔役役の片岡亀蔵がすごむ場面とか、助かったお富をかくまっていた和泉屋多左衛門役の河原崎権十郎がきっちり応対する場面とか、声でも魅せてくれる役者が多かったからなおさら気になった。あと後半のお富についていた女中も気になったんだけど、誰だったんだろう。

なおこの芝居で和泉屋多左衛門役を務める予定だった市川左團次は出られずに亡くなった。合掌。

連獅子。今回は尾上松緑と左近の親子による連獅子。お囃子がきっちりリズムを刻んでいたのもあるけど、左近の踊りがそのリズムに乗ってきっちり決まっていた。しっかり止まるキレのある動きと合せて、歌舞伎の舞踊としていいか悪いかはわからないけど、観ていて気持ちがいい若獅子。最後の毛振りこそ円にすこし足りなかったけど、客席の拍手は本物。時間の都合か観ずに帰ってしまった客もちらほらいたけど、もったいない。左近はちょっと気にしておきたい。

2023年3月14日 (火)

Bunkamura企画製作「アンナ・カレーニナ」Bunkamuraシアターコクーン

<2023年3月12日(日)昼>

19世紀のロシア。公爵の次女であるキティは田舎で領地経営を行なうリョーヴィンと惹かれあっていたが、親の決めた青年将校ヴロンスキーと婚約するためプロポーズを拒否する。公爵の長女であるドリーはすでにオブロンスキーと結婚して子をもうけていたが、オブロンスキーの浮気に激怒する。兄のオブロンスキーから仲裁を頼まれた妹のアンナも子を持つ既婚者だが仲裁のためにモスクワに上京する。ここでアンナと出会ったヴロンスキーが恋に落ち、ペテルブルクまで追いかける。婚約者に逃げられたキティは憔悴し、浮気相手が地元までやってきたアンナの夫カレーニンは何とか事を収めようとする。だがアンナの妊娠が発覚する。

小説を読んだことがない私が超おおざっぱにまとめると、愛と結婚とは何か、という芝居でした。タイトルロールのアンナを巡る三角関係と、ドリーが浮気した夫をどうするかと、キティが果たして復活できるかと、大まかにこの3つの関係で描きます。

ただ宮沢りえ演じるアンナ・カレーニナの役どころがヤバかった。浮気したところまではまあいいとして、モスクワの社交界での扱いに耐えられずに、しまいにはヴロンスキーのことまで疑うようになっていく有様はメンヘルの一言です。宮沢りえの説得力でかろうじて成立するくらいです。

そして一度はドリーに許されたもののまた遊ぶオブロンスキーに対しては、就職口が決まって借金を返す当てはついたものの、ドリーは出て行くことを選びます。

さらにこの演出は、その陰で子供が犠牲になることを描きます。アンナはカレーニンとの間にもうけた息子を引取ろうとしますし息子も母恋しさに父に反抗しますが、ならアンナが引取ればいいのか、カレーニンの何が悪かった、という問題でもあります。

小説は未見ですが、チラシにある「真実の愛を求める人間たち」は、まあ嘘ではないでしょうか。どちらかというと、浮気相手に走ったアンナ、浮気したオブロンスキー、双方に対して突き放した感じのある演出でした。

このドロドロとの対比でひときわ輝いてくるのがキティとリョーヴィンのカップルです。チョークと黒板を使った二度目のプロポーズの場面や、初産を控えて誤解と思い込みで喧嘩するところから仲直りする場面など、言葉を選ばずに言えばバカップルです。なのですが、いいじゃないか小さな誤解くらいと思わせる勢いがあります。ここで振りきった浅香航大と土居志央梨は記録しておきたい。

神父を目指していたリョーヴィンの兄を看取る場面、妻の出産の無事を願って「誰もいない部屋でひとり言葉をつぶやくならこれは祈りではないか(大意)」と気がつく場面、こちらのカップルに色恋を超えて相手を想う愛が描かれます。

個人の意思の尊重が行き過ぎて夫婦も子供も訳が分からなくなった現代社会です。それもいいけど、夫婦と子供という基本のコミュニティについてもう少し考えなおしてみないか、個人の自由と家族を維持する努力とに折合いを付けてみないか、自分で行動できる大人と庇護を必要とする子供との違いに目を向けてみないか。そういう演出だと私は受取りました。最初1時間くらいはとっちらかった座組だなと思っていたのですが、終わってみたら子役含めていい座組に見えた、そういう芝居でした。

私が最近ラノベを読みすぎて「真実の愛」と見ると後ろに「(笑)」が浮かんで見えるようになってしまったで、その点は差引いてください。

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